こんにちは、和花人ブログのMIHOです。
今日は、最近ようやく自分の中で“深く納得できたこと”について書こうと思います。
それは、「私は記憶することが難しい人だ」という事実です。
「記憶できない」自分への長年の劣等感

私は昔から、人の名前や会話の内容をすぐに忘れてしまうタイプでした。
大切な日も、約束も、何度も確認しないと不安。
MIHO気をつけていても、息子の誕生日すら忘れてしまう始末。
書類で生年月日が必要な時は、毎回主人に電話をして確認していました。
そのたびに、
「私ってなんでこんなに覚えられないんだろう?」
「どれだけ頑張ってもダメなんて、私ってバカなんじゃないか?」
そうやって自分を責め続けてきました。
人は“できない理由”よりも、“できない自分”を責めてしまうものです。
私も例外ではありませんでした。
それは怠けや努力不足ではなく「特性」だった
けれど、ここ最近の自己理解の一環で、分かったことがあります。
一見すると矛盾しているようですが、これが私の頭の中を“嵐”のようにしていた原因でした。
私の頭は情報をどんどん拾って、どんどん処理しようとします。
それを整理して記憶に残す前に、また次の情報が押し寄せてくる。
情報が入る → 瞬時に処理しようとする → 処理が追いつく前に次が入ってくる → 前の情報が流れていく
という流れ。
MIHOつまり、「忘れる」のではなく、「処理が速すぎて保持が追いつかない」という方が正しいかもしれません。
全部抜け落ちてしまうわけではなく、感情に紐づくような記憶は残りやすい感じです。
でも本当は、
できないのではなく、そういう“仕組み”を持っているだけ。
ただ、それだけのことだったのです。
MIHO余談ですが、私の睡眠障害が治らないのも、この特性のせいだと判明しました。
私の場合、脳は常にアクセル全開状態。
日中に処理しきれなかった情報が、夜になっても頭の中でグルグル回転し続けているんです。
忘れっぽさが育ててくれた「改善力」

でも、思い返してみると、私は昔から“忘れる前提”で生きていた気がします。
- 「メモ帳」を常に持ち歩く
- 手に「油性ペン」で大事な言葉を書く
- 人との会話はすぐメモする
- すぐに「マニュアル化」して共有する
- 失敗を「ノート」にまとめて改善案を考える
こうした外部メモリ(ノート・ツール)に出す「記録癖」や「マニュアル化癖」は記憶力のなさを補うためにやってきたけれど、それが結果的に、私の“改善力”や“仕組み化の力”を育ててくれたんです。
覚えられないなら、「記録」すればいい
今の私はもう、「覚えられないこと」を責めません。
記憶に頼るのではなく、“記録として残す”という生き方を選びました。
昨日考えていたことも、今日の感情も、時間が経てばすぐに消えてしまう。
でも、書き残しておけば“あの時の自分”にもう一度会える。
MIHOだから私は「ブログ」を書き続けています。
それは単なる発信ではなく、“私という人間の記録”を積み重ねていく作業。
覚えられないから、時々、同じような内容の記事が増えていることもあります(笑)
でも、それでいいと思っています。
だってそれは、何度も同じ壁にぶつかり、そのたびに少しずつ成長している証だから。
記憶よりも、記録の方が「誠実」だと思う
「記憶」は感情に左右されるけれど、記録はその瞬間の“事実”を残してくれます。
気分が沈んでいる時の言葉も、嬉しくて浮かれている時の言葉も、どちらも「私の人生の一部」。
私はそれを、
「記憶」ではなく「記録」として残す
そう決めました。
それは忘れることを恐れるのではなく、「忘れても大丈夫」と思える安心の仕組み。
私の頭の中は常に嵐だけれど、ブログが“私のもう一つの記憶装置”になってくれています。
最後に

「覚えられない」という劣等感は、長い間私を縛ってきました。
でも、自己理解を深めた今の私は、もうその呪縛から自由です。
人より覚えられない代わりに、私は人より「記録し、残し、整理する」力を持っている。
それは、誰にも奪えない私だけの強み。
だからこれからも、私は“記憶する”のではなく、“記録する”。
忘れても、書けばいい。
忘れても、また思い出せばいい。
そして、このブログが、同じように自分の特性に悩む誰かの励ましになれば嬉しいです。
オススメ記事






